心のサイン

12月頃からばかみたいに「忙しい」しかブログに綴っていない。忙しいとは、心を亡くすと書く。亡くしてるなあ完全に、と思う。忙中閑ありで、少しすき間時間があると整体にいく。自分をかまうことまで、金を払って人に委ねているこの愚かさよ。もうすぐいろんな山が終わるので、ちゃんと自分の体は自分でいたわろう。
夕食用にじゃ〜っと炒め物だけ作ったり、「これで何か買って」と言ってお金をおいて飛び出していく母親のことを、最初は「わーい、うるさいのがいない」と喜んでいた娘も、あきらかに日々表情がなくなっていき、最近は「ただいま」と言っても能面みたいな顔をして答えなかったりする。
ところが今日は、夜遅く帰宅すると、荒れ果てていたはずの洗面所がピカピカになっていた。年に1度あるかないかの、娘の自発的掃除だ。これが最後の心の叫びで「わたしをほめて。わたしのほうをふりむいて」のサインなのだと思った。これを逃すと本当に能面になってしまうかもしれない。寝ている娘をたたき起こしてありがとうを50回くらい言った。そろそろ普通の生活に戻らないとえらいことになる。

人気者の由縁

今朝はセロリきゅうりキウイ小松菜の緑祭り。

行正り香さんに取材でお会いした。びっくりするくらい飾らない人で拍子が抜けた。人間には年を取るほど鎧がかぶさっていく人と、どんどん脱ぎ捨ててフラットでシンプルになっていく人がいる。以前の彼女を知らないがきっと後者のような人なのだと勝手に想像した。取材後暫く、爽やかな風が心の中にふいていて気持ちが良かった。

昭和の作法

小津や成瀬巳喜男の映画をまとめて見ていて、やっぱり昭和の言葉は気がきいていていいなと思う。「ちょいとばかに気前がいいじゃないか」なんて最高だ。「ちょいと」と「ばかに」がセットになると昭和風味が倍増する。「なんですか不意に」の「不意に」もいい。
お父さん役の笠智衆が、夜遊びの過ぎる娘を説教するとき「ちょいとここにおすわりよ」とまずこたつの座布団を勧める。説教にもちゃんと作法があった。今度、子どもたちを叱る前にそんな風に言ってみるか。・・・あ、うちにろくな座布団がなかった。

1杯でいい。


 

 

 

 

 

 

 

終日、料理の撮影。生搾りジュースを撮っては飲み、撮っては飲みして、夜にはお腹がちゃぽちゃぽで、ただの1滴も入らぬ状態に。どんなに体にイイものも、過ぎたるは及ばざるがごとしである。

おもいやりのかたち

ある美術展の図録制作のお手伝いで、素敵な人たちに出合った。どう素敵かというと、凄い仕事をしてきたのにそれをひけらかさない、目線が誰に対してもフラットで平等で、きどらない。このどれも、年をとればとるほど難しいことである。
そのおひとりは和傘作家で、外国の傘は広げたものをたたむと、濡れた面が外に出るが、和傘は濡れた面が内側にたためるようになるのだと教えてもらった。それは、日本人の思いやりであり、日本人らしい造りなのだとも。しみじみと和傘が欲しくなったのは言うまでもない。

ちょっとしたものの差

京都の舞妓さんやお洒落なバーでは、正月に梅干しやこんなかわいいてぬぐいを配るそうな。なんだか気がきいている。東京がどんなに頑張っても追いつけない独自の品格が街にしみこんでいる。大福梅は5年後でも食べられるそう。